【書評】学問論[全ての学問は根本知を中心に有機的に統一される]

【書評】学問論[全ての学問は根本知を中心に有機的に統一される]
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どうもタスです。

「ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊」で佐藤優氏により紹介された本書を読んだ。佐藤氏によれば、本著者シェリングは天才哲学者のようだ。なるほど、とても難しい本であった。大学生に是非読んでもらいたい書だと言っていたけれど、私からもぜひ挑戦してほしいと思う。

本書は1802年にドイツのイエナ大学で著者が行った講義を著したものである。そこで今回は、読書習慣を始めて118冊目の本となった『学問論(岩波文庫)』を読了したのでお伝えする。

 

著者のご紹介(本書引用)

本書に著者及び訳者紹介がないので、wikipediaから引用する。

(Schelling)
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling、1775年1月27日 – 1854年8月20日)は、ドイツの哲学者である。フィヒテ、ヘーゲルなどとともにドイツ観念論を代表する哲学者のひとり。

勝田 守一(かつた しゅいち):訳者
勝田 守一(かつた しゅいち、1908年11月10日 – 1969年7月30日)は、日本の教育学者。東京大学教育学部の同僚であった宮原誠一(社会教育学)、宗像誠也と並んで「3M(スリー・エム)」と称される。

 

目次

訳者はしがき

第一講 学問の絶対的概念について
第二講 大学の学問的並びに道徳的使命について
第三講 大学における研究の第一前提について
第四講 純粋理性学たる数学及び哲学一般の研究について
第五講 哲学の研究に対する一般の論難について
第六講 とくに哲学の研究について
第七講 哲学の外的な対立の若干について、とくに事実的学問の対立について
第八講 キリスト教の歴史的構成について
第九講 神学の研究について
第十講 歴史学と法学との研究について
第十一講 自然学一般について
第十二講 物理学と科学の研究について
第十三講 医学並びに有機的自然論一般の研究について
第十四講 大学における研究と関係する芸術学について
訳注
解説

 

本難書を少しでも簡単に読むための方法

【書評】学問論[全ての学問は根本知を中心に有機的に統一される]

本書はとても難しい。正直、理解には到底及ばず、小飼弾氏の言うように「曖昧さを残したまま読み飛ばす」状態になってしまった。しかし、それでも何か一つは得ることがあるのである。それが本であり、私が惹かれるところである。

本書は本編を読む前に解説を読むことをおススメする。なぜなら、当時の時代背景を知ることで本書の構成も理解し易いからである。その一部分を引用する。

大学の語である universias は十二世紀から十三世紀にかけて教師の団体、学生の団体に対して用いられていたのであるが、 collegium とも同じ意味であって、集合体、共同体を指して云った。(中略)パリ大学においては十三世紀にその組織が完成されたのであるが、大学すなわち studium generale は神学、法学、医学の三学部と、文学部(或いは自由学科〔artes liberales〕の学部)から成立していた。それは中世大学の一般的な分科であるが、文学部は他の三学部に対する予備段階であり、それは三科(trivium)と四科(quadrivium)とを含み、合わせて自由七科とよばれた。三科は文法・論理・修辞を指し、四科は音楽・算術・幾何・天文を指している。文学部(哲学部)は下位学部と称せられ、その教師は他の学部において研究中の学生であった。

また、本書はタイトルのとおり、学問論ということで諸学問を体系付けて説明するのだけれど、その根底にはがある。著者も哲学者である。そのため、哲学に対する知識は必須のように思う。私も哲学用語(と言って良いのだろうか)を調べながら読むことになった。

ここまでの予備知識を付けて、再読すればまた違った見方ができるのではないかと思う。

 

学問を体系化するにあたって

【書評】学問論[全ての学問は根本知を中心に有機的に統一される]

先に述べたとおり、当時の大学の体系は上位の三学部と下位の文学部(哲学部)から成っており、上位三学部はある規範や規定、規則(聖書や一般国法や医師法)を理解することのみが必要であり、それ以上は必要でないものであった。それを遵守することで一定の位置につけたのである。

それに対して下位学部は、「純粋な知識のための知識そのものにおいては直接の実際的な目標に対する貢献は期待されないから、そういう知識はこういう命令や分類には無関心である。」ということなのである。つまり、それは学問を自由に探究することができるということであり、下級学問こそが学問といって良いと言えるのである。

つまるところ、これだけは絶対だと明確にしている。それは、

哲学は根本知そのものの直接的な表現であり、学問である。

ということだ。すべての学問は根本知の部分であるとも言っており、言い換えれば繋がっているということだ(連関しているという表現が多々見られた)。哲学は観念的であり、それを実在化したものが自然学等であると言っている。観念的思惟は無限なものであり、そこから全ては派生するということなのである。

連関した学問は有機的に統一されており、その統一を保つためには「学問の自由」が必要だというのである。

 

つまるところ学問を感じる書

【書評】学問論[全ての学問は根本知を中心に有機的に統一される]

上位学部について、解説の以下の件(くだり)を見てほしい。

その区別は学問の品位の上での区別ではない。政府そのものがその講義に関心を持つような学部は上級学部といわれ、学問的関心のみが問題とされる学部は下級学部といわれる。

上級であるか下級であるかの境は「有用であるか」どうかなのである。もっというと実利があるかどうか。これは本書で非常に批判されている。学問にとって有用かどうかは基準ではないため、最もなことである。

ここで想起したことは、福沢諭吉の「学問のすすめ」で推していた「実学」を学ぶことと、「「中卒」でもわかる科学入門」で言われたいた「役に立つことを強制される科学者」である。

前者は文明開化時代に国民を率先して導くため、学問により国を守ることが優先になった結果であり、学問論で論ずるには蛇足になるのだけれど、後者においては十分に検討の余地がある。小飼弾氏は「科学は「趣味」であるべき」と暴論であることを認めながらも言っているが、それは全く持って的外れではない。

学問を突き詰めることは非常に難しい。なぜなら、突き詰めることすら学問なのだから。しかし、そこから目を背けず、知識を得る、学を得る、その元は何なのかを触ることは、皮肉だけれど非常に有用である。本書は学問を志す全ての人に読まれるべきである。

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