![【書評】「おろかもの」の正義論[「正しさ」を考える]](https://tasulife-23.com/wp-content/uploads/2020/01/00-5.jpg)
どうもタスです。
これはスゴイ。何が凄いって書名がスゴイ。「おそかもの」が正義論を考える。少なくとも著者は愚か者ではない。著者が愚か者であれば、私は何なのだろう?そもそも人間ではないかもしれない。
本書は、「正義」について抽象的な概念を確立し、それを具体的事例に即して考察している。書名では「正義」だが、書内では敢えて「正しさ」に換言されて語られている。正義や正しさは、道徳観と紐付くと考えていたが、そう単純には語ることができないようだ。だから1冊の本にまでなっているのだ(たぶん、もっと紙面を割きたかったはず)。
本書を読むことで「正しさ」に対して真摯に向き合い、「以前より自由に物事を見られるようになる」ことは必至だ。そこで今回は、読書習慣を始めて29冊目の本になった「「おろかもの」の正義論(ちくま新書)」についてお伝えしたいと思う。
著者のご紹介
小林 和之(こばやし かずゆき)
1959年生まれ。大阪大学大学院法学研究科修了。博士(法学)。法哲学専攻。保険会社、大阪大学法学部助手などを経て、IT法学教育科研費プロジェクトに従事(2004年当時)。自分自身の肉声で思想する希少な法哲学者。
目次
第1章 「正しさ」は必要か
第2章 すべての価値を支える価値は何か
第3章 規範は「死」を決められるか
第4章 事実とは何か―事実と社会システム
第5章 科学は正義を決められるか
第6章 他人に迷惑をかけてはいけないか
第7章 選択の自由があるのはいいことか
第8章 暴力をどう管理するか
第9章 国家とは何か
第10章 民主主義は「正しさ」を実現できるか
第11章 「正しさ」の世紀へ
補論 「未来を選ぶ」ということ
「正しさ」を考える意味とは
「正しさ」とはどういうことだろうか?コトバンクで調べると以下のとおりだった。
1. 形や向きがまっすぐである。
2. 道理にかなている。事実にあっている。正確である。
3. 道徳・法律・作法などにかなっている。規範や規準に対して乱れたところがない。
本書では「正しさ」を二つに分けており、一つは科学的根拠のある事実的な正しさで、一つは規範的な正しさをいう。取り扱う主題は後者の正しさだ。前段で述べたが、この正しさは道徳と深い関係にあると思っていた。これは間違いではないのだが、正しくもないように感じた。
その理由の一つは、現代は車社会を許容しているからである(本書では他にも事例は山ほど出てくる)。車に伴った交通事故で年間約8,000人が亡くなっている。道徳的に人を殺してはいけないということを前提に考えると、車社会を廃絶するべきではないのか?間接的に殺人を許容するのか?なぜそのような声が聞かれないのか?それは利便性と表裏一体であるからだ。そのために交通ルールという規範(折衷案)が設けられている。
このようなふと気付かされるような内容が次から次へと出てきて、その度に「正しさ」を考えさせられる。普遍的な正しさではなく、自分にとっての正しさとは何なのか。個々の事象に照らして、事実、自らに適用したとして、正しさとはどういうことなのか。とても難しくて簡単に結論は出ないが、少なくとも道徳一つで解決できるような単純な問題ではない。
また、書名になっている「おろかもの」とは人間を指しており、本書の各所ではそこを強調している。どういうことかというと、我々人間には絶対などはなく、必ず誤るものであるということだ。そういう性質も抱き合わせて「正しさ」を考える必要があると。
本書の序では以下の文章で締めくくっている。
考えることは自由になることだ、とわたしは思っている。ある具体的な問題について考えを積み重ねることは、こだわって視野が狭くなることではない。多くのことを知り、新たな可能性を見だし、自分が知らないうちにとらわれていた思いこみから自分を解放することなのだ。本書のねらいは、あなたが以前より自由に物事を見られるようになる手助けをすることである。
抽象的な「正しさ」と具体的な「正しさ」を考えて
本書で衝撃的だったのは「抽象的な正しさ」の解説部である。正しさが何であるかを考えると車社会の事例のように絶対的な答えはない。答えはないが、人の欲求を上手く制御する手段を作り出すことを一つと考えても良い。それが秩序であり法律である。
また、人間は欲求の塊だ。だから自由にさせてくれ。なんて聞こえてきそうだが、そこにも正しさはない。なぜなら自由に不自由があるからである。これは「なぜ人を殺してはいけないのか?」について考えると納得がいく。自由があり、人を殺して良ければ、自分も殺されて良いことになる。それが本当の自由なのだろうか?カントの定言命法のとおり、「他人にされて嫌なことは他人にするな」ということである。自由にも制限があるということだ。
さらに、それら全ては命無くして成り立たない。「命より大事なものがある」というが、生命無くしては欲求することすらできないのである。すなわち、「生命・自由・秩序」を無視して正しさを考えることは、地球を無視して人類を考えることと同じくらい意味のないことなのだと思う。
本書では抽象的「正しさ」を土台に具体的事例を考察している。脳死、死刑、弁護士、科学、過失責任、不妊治療、凶悪犯罪者などの個に関する問題から、国及び国家、民主主義、人類に至る集団に関する問題まで幅広い。
特に、死刑についての件は今までの価値観を変えるものになった。「おろかもの」の特性を無視して死刑制度を考えることはできないが、だからと言って、被害者感情をふいにできない。死刑制度は知れば知るほど反対派になるらしい。実際に死刑冤罪も起こっていることを考えると単純な話ではない。どれもこれも単純でないからこそ、一人一人が考えなければならないのである。
序の締めくくりに「考えることは自由になることだ」と書かれていたが、まさしくそのとおりだと思う。本来、アリストテレスのいうとおり「人はみな生まれながらに知ることを欲する」なのであり、おろかものがより良き社会を作るためには考える他ないと思うからだ(この場合のより良き社会は「正義」ともいえる)。
この意識こそが集団に帰結し、それが人類にまで影響することが理想であり、そこに「正しさ」があるのではないかと学んだ。問題は複雑で難解なものばかりで、ここまで考察した著者を尊敬せざる負えない。
おわりに
普段、何気なく簡単に「それは正しい」なんて言っていたが、これからは恐れ多くて言えなくなるのではないかと思うくらい「正しさ」について考えさせられた。「世の中、正しいものなんかねぇ」とは言い切れない。正しいと正しくないの連続的な中をウロウロしながら物事を見る癖がつくような気がする。
大学で卒論や修論の作成時に、先生からよく「言い切るな。簡単に言い切れることはない。」とお叱りを受けたが、今でもそれは教訓になっている。著者のような明晰な方でも言い切れないのだから、私はもっと知りもっと考える必要があることをなおさら実感した次第である。