【書評】日本辺境論[辺境(日本)人とはいかなるものか]

【書評】日本辺境論[辺境(日本)人とはいかなるものか]
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どうもタスです。

面白かった。先に言っておくけれど、本当に内田樹さんの本は面白い。武田鉄矢さんが熱心になる気持ちも分かる。今回も新書大賞から選定した本を読了した。日本人論とでも言える内容で、まさに私達を見る見つめ直す本である(本書どおり朝のルーティンのようにこれで良いということはない)。

そこで今回は、読書習慣を始めて137冊目の本となった『日本辺境論(新潮新書)』を読了したのでお伝えする。

 

著者のご紹介(本書引用)

内田 樹(うちだ たつる)
一九五〇(昭和二十五)年東京都生まれ。東京大学文学部卒。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。現在、神戸女学院大学文学部総合文化学科教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。著作に『先生はえらい』『下流志向』『私家版・ユダヤ文化論』(小林秀雄賞受賞)他。

 

目次

はじめに
I 日本人は辺境人である
「大きな物語」が消えてしまった
日本人はきょろきょろする
オバマ演説を日本人ができない理由
他国との比較でしか自国を語れない
「お前の気持ちがわかる」空気で戦争
ロジックはいつも「被害者意識」
「辺境人」のメンタリティ
明治人にとって「日本は中華」だった
日本人が日本人でなくなるとき
とことん辺境で行こう
II 辺境人の「学び」は効率がいい
「アメリカの司馬遼太郎」
君が代と日の丸の根拠
虎の威を借る狐の意見
起源からの遅れ
『武士道』を読む
無防備に開放する日本人
便所掃除がなぜ修業なのか
学びの極意
『水戸黄門』のドラマツルギー
III 「機」の思想
どこか遠くにあるはずの叡智
極楽でも地獄でもよい
「機」と「辺境人の時間」
武道的な「天下無敵」の意味
敵を作らない「私」とは
肌理細かく身体を使う
「ありもの」の「使い回し」
「学ぶ力」の劣化
わからないけれど、わかる
「世界の中心にいない」という前提
IV 辺境人は日本語と共に
「ぼく」がなぜこの本を書けなかったのか
「もしもし」が伝わること
不自然なほどに態度の大きな人間
日本語の特殊性はどこにあるか
日本語がマンガ脳を育んだ
「真名」と「仮名」の使い分け
日本人の召命
終わりに

 

変化する仕方は変化しない

【書評】日本辺境論[辺境(日本)人とはいかなるものか]

本書は日本人論である。日本人論を辺境論と言っているのには訳があって、その訳こそ本書の主題なのである。「日本とは何か、日本人はいかにあるべきか」という問いに答えられる人はまずそうはいないだろう。

では、一方で、それをアメリカ人に聞いたらどうだろうか。聞いたことがないので本書の受け売りだが、「その問いに自らの責任で答えることを当然だと思っている」というのである。それが善いか悪いかと言っているのではなくて、なぜそうなのか?ということを深掘りするのが本書なのである。

辺境論を表す一つの例が上記の問いに対する態度であり、その例はバラエティーに富んでいる。辺境の歴史、辺境人の性格、辺境人の学び、辺境人の宗教、辺境人の時間論等々、辺境人(日本人)に対する視点の角度が多種多様で落ち着く暇がないほど面白い。

一つ一つは時代も違えば事象も違い、背景も違えば結果も違う。全てが異なる中で同一のものがある。それを丸山眞男を引いて以下のように表している。

丸山が言っているのは日本文化の古層に「超歴史的に変わらないもの」があるということではありません。そうではなくて、日本文化そのものはめまぐるしく変化するのだけれど、変化する仕方は変化しないということなのです。
 「まさに変化するその変化の仕方というか、変化のパターン自身に何度も繰り返される音型がある、と言いたいのです。つまり日本思想史はいろいろと変わるけれども、にもかかわらず一貫した云々—-というのではなくて、逆にある種の思考・発送パターンがあるゆえにめまぐるしく変わる、ということです。あるいは、正統的な思想の支配にもかかわらず異端が出てくるのではなく、思想が本格的な『正統』の条件を満たさないからこそ、『異端好み』の傾向が不断に再生産されるというふうにもいえるでしょう。前に出した例でいえばよその世界の変化に対応する変わり身の早さ自体が『伝統』化しているのです。」

「変化する仕方は変化しない」これこそが辺境人特有の『伝統』なのである。近代といえば明治維新からの文明開化である。それはまさに西洋を取り入れたことであるが、取り入れることには開放的で、取り入れ方には辺境人特有の音型がある。その音型を「執拗低温」と表し、主旋律にはならないけれど低音部で反復されるものとして表現した。主旋律こそ大陸から来た外来思想なのである。

 

辺境の歴史認識と「あるある」

【書評】日本辺境論[辺境(日本)人とはいかなるものか]

では、その辺境とはどこから来ているのか。それは日本の歴史に端を発する。「辺境」は「中華」の対概念であり、華夷秩序を表す。華夷秩序について本書から引用すると、

世界の中心に「中華皇帝」が存在する。そこから「王化」の光があまねく四方に広がる。近いところは王化の恩沢に豊に俗して「王土」と呼ばれ、遠く離れて王化の光が十分に及ばない辺境には中華皇帝に朝貢する蕃国がある。(中略)そのさらに外には、もう王化の光も届かぬ「化外」の暗闇が拡がっている。中心から周縁に遠ざかるにつれて、だんだん文明的に「暗く」なり、住民たちも(表記的には)禽獣に近づいてゆく。そういう同心円的なコスモロジーで世界が整序されている。

というのである。これこそ主旋律と執拗低温の形であり、古来から日本はその系の中にいたということなのである。

本書は先の例で伝えた通り、「善い悪い」は論じていない。辺境人(日本人)とはこういうものであるということを再認識しましょ。ということを説いているのである。何となく気付きながらもここまでハッキリ明示されると納得以外の仕様がない。

自らのコスモロジーを持てない、だとか、旗振り役はできない、だとか、空気で察知する、だとか、武士道や学びの神髄の心得だとか、日本語の特殊性、だとか。「善い」も「悪い」もあって、「あっ、そうそう、これある。あるあるだな。」なんて思いながら読んだ。

 

辺境人的「学ぶ」ことの認識

【書評】日本辺境論[辺境(日本)人とはいかなるものか]

特有の民族性みたいなものは納得できるけれど、実は自分でも気付いていない点も多くあった。実は「シラバス」なんてものは無くても良い。とか。私もあまり見ないのだが、その理由は自分でもよく分からなかった。それを本書は理解させてくれた。

大学のシラバスは、典型的に欧米的な教育思想の産物ですが、これは学び始める前に、これから学ぶことの意味や有用性について初心者にもわかるように書かれた説明です。

この意味が分かるだろうか。まだ学んでいないことについて、学ぶ前から理解するということである。それでなぜ理解できようか。それでなぜ未学習科目の中から単位を選択するという選択的思考が発動できようか。

棋士の世界では師匠は弟子に将棋を教えないというのである。お笑いの世界も同様だった気がする。職人と呼ばれる世界はそういうイメージがある。これらの世界では、学ぶことについて一望俯瞰的なマップを示すようなことはしない。学ぶということの主体性が欠如し、「真のブレークスルーは経験できない」ということを理解しているからである。

 

「虎の威を借る狐の意見」はて、トラになれるか?

【書評】日本辺境論[辺境(日本)人とはいかなるものか]

「虎の威を借る狐の意見」という節は非常に興味深かった。思えば納得していることだったのだが、これほど適切な表現が当てはまったのが爽快だったからである。

例えば、普段の会話で「〇〇について××はなぜ□□なのですか?」と具体的な質問をして、その回答を得たとする。しかし、その回答ではしっくりこない。なぜなら、その回答になるための過程が分からないからである。では、しっくりするためにはどうすればよいだろうか。その答えは、その過程を知ることである。

そこで、再度、「××が□□になるためには、どういう過程があるのですか?」と尋ねたとする。しかし、先の回答者にはその答えがない。正確には「そうなっているから」という答えが返ってきたりする。これについては、回答者の知識を無料(タダ)で頂き、しかも時間まで奪ったので「なぜ知らないのですか?」なんて愚問はせず、感謝の意を伝えて終了とするが、分かったのは「回答者は根本的な理解はしていない」ということである。

根本的な理解は、その問いへの回答だけに留まらず、以後の基礎的知識習得のためだったり、課題解決のための応用的活用だったり、「知らなければならない知識」なのである。知識の根は張っていないと簡単に抜けてしまう。根は張れば張るほど抜け辛く、且つ栄養素も吸収しやすいだろう。

それを「そうなっているから」で片付けるということは表面的知識であることを公言していることであり、他人の受け売りをしているだけなのである。まさに『虎の威を借る狐の意見』だということである。

「虎の威を借る狐」というのは、「他の権勢に頼って威張る小人(しょうじん)のたとえ。」である。逆説的に言うと、狐は虎ではないから「虎にはなれない」のである。いくら虎の傘下にいようとも、虎風にしても、虎の着ぐるみを着ても、虎の名刺を出しても、虎と同じものを食べても…、、、、決して、虎にはなれないのである。

要は、狐が虎の威を借るように、表面的知識を押さえたところで、結局、虎(根本原理)は分からないのである。しつこいようであるが、狐である以上、虎は分からないのである。では、どうしたらよいか。他人の受け売りをやめることである。「虎は何なのか?」という問いを自分に向ける習慣を放棄しないことである。

本書で『ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうして「そういう判断」に立ち至ったのか、自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションできません。』とあるが、まさにその通りだと思う。

単なる質疑応答と議論では質は違うけれど、根本は同じ。狐のままではいけないのである。

 

おわりに

最後は話しが多少脱線してしまったけれど、本書は日本人とは。。。という主題に縦横無尽な論理を展開している。マスメディアは「日本(日本人)はヤバイ!」とあくまで劣性的な印象を残すような論説しかしないけれど、「えっ?ほんと?」なんて疑心暗鬼になっている方(一部分だけ切り取るからそう思っても仕方ない)はまず本書を読むべきである。

そして、何事もそうであるが「善い悪い」は自分で決めるべきである。たとえ著者がどちらか一方に倒していたとしても。やはり、狐のままではいけないのである。

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