【書評】日本語が亡びるとき[叡智を求める人でいたい]

【書評】日本語が亡びるとき[叡智を求める人でいたい]
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どうもタスです。

普段何気なく使っている日本語。使うというのは、話す・書くの両方を指す。生まれながらに不自由なくと言っては言い過ぎだけれど、敬語や各種マナー類に気を付けていさえすれば、日本語は母語のため使いやすい慣れ親しんだ言葉である。

本書、「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で(筑摩書房)」を読んで日本語の生い立ちと、日本語のために尽力した過去の人々の物語を知ることにより日本語への愛着がさらに増した。とはいえ、著者の愛着に比べれば、私はほとんど無関心に近い状態ではあったのだが…。

そこで今回は、読書習慣を始めて41冊目の本になった「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で(筑摩書房)」についてお伝えする。

 

著者のご紹介

水村 美苗(みずむら みなえ)
東京生まれ。十二歳の時、父親の仕事の都合で家族とともにニューヨークに移り住む。アメリカになじめず、改造社版「現代日本文学全集」を読んで少女時代を過ごす。イエール大学および大学院で仏文学を専攻。のち、創作の傍らプリンストン大学などで日本近代文学を教える。

 

目次

一章 アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
二章 パリでの話
三章 地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々
四章 日本語という<国語>の誕生
五章 日本近代文学の奇跡
六章 インターネット時代の英語と<国語>
七章 英語教育と日本語教育

 

「言葉」をテーマとした作品

【書評】日本語が亡びるとき[叡智を求める人でいたい]

前回読んだ本「唯脳論」では、脳の器官的法則性として、視覚と聴覚の感覚を脳内で統御しているということを知った。この後に本書を読んだのが幸いだったというべきか、まさに視覚は<書き言葉>であり、聴覚は<話し言葉>で、「言葉」というテーマに、脳の法則性を解明する観点(唯脳論)と、言葉自身が持つ意義を観点とする本書のコントラストを味わうことができたのである。

 

日本近代文学の難しさと愉しさ

【書評】日本語が亡びるとき[叡智を求める人でいたい]

そもそも、本書のテーマになる日本近代文学というものを私はあまり知らない。本書でも言っているように、夏目漱石の作品で「坊ちゃん」を読んだだけでは甘々なのである(坊ちゃんは読みました…)。日本近代文学を肌身で感じることで、日本語の奥ゆかしさとか流麗さ、喜怒哀楽だけで表せることができない機微を感じ取るところに面白みがあるのだと知った。

以前、「高校生のための」三部作を読了したが、紹介された文例の数は100を超えた。それらを読んで感じた最初の感覚は、「難しい」である。一つ一つの作品が難しい。正直、解説を読まなければ何を言っているのか分からない文例は少なくなかった。一度だけでなく、二度三度読んだ文例もあった。さらに、一つ一つの言葉も難しい。片手にスマホを持ち、単語を翻訳しながらやっと読了するという具合であった。

そのため、何が「高校生のための」だと一人憤慨しながら読了したのである。しかし、読めば読むほど文章には慣れてくる。二度三度同じ文章を読むと読み慣れてくるだけでなく、その情景が頭に浮かび上がってくる。そうすると何が言いたいのかを理解するようになる。理解しているかどうかは別として、理解しようと、読めなかった時には進めなかったステージに行けるのである。

そこで初めてその作品を楽しめる舞台に上がったと言っていいのではないだろうか。理解しようとすればするほど痛感したのである。そのため、「何が言いたいんだこの作品は。。」とか、「いちいち難しい言い回しにするな!」とか、「昔の言葉は何て読み辛いのだ。。」とかグチグチしながら読んでいたことを考えると、本書は青天の霹靂ともいえるほど私の無知無能さを浮き上がらせてくれた。

 

叡智を求める人が愉しめる本書の概要

【書評】日本語が亡びるとき[叡智を求める人でいたい]

序盤は、著者がIWP(International Writing Program)に参加したことをきっかけに、当時、パリで開かれたシンポジウムで小説家として講演した際に言われた「日本文学のような主要な文学」という言葉に端を発して、世界中の「言葉」と日本の「言葉」の歴史に深く迫る。

その後、「日本語」を操る日本近代文学の隆盛と世界に普遍する英語との調和、さらには教育を通して亡びゆく日本近代文学、ひいては日本語に憂いており、そこに小説家としての想いと希望を提言しているというのが大体の概要である(とっても大雑把ではあるが)。

本書は著者の博学振りが隠れることなく表現されており、それは言葉の歴史を語る三章を読むだけで理解できる。それは「我思う、ゆえに我あり」と言ったフランスのルネ・デカルトがなぜラテン語で「Cogito rgo sum(コギト・エルゴ・スム)」とわざわざ翻訳しているのかを十分に理解させてくれ、国際学会では、なぜ英語論文が主なのかということも十分に理解させてくれる。

特に、四章で語られる日本語の誕生には驚嘆した。白文から真仮名、漢文訓読体、そして、カタカナ、平仮名の歴史など、冒頭で「普段何気なく使っている日本語」までの経緯が非常に興味深かった。それと同時に、自分自身が恥ずかしくもあった。それは先に話したとおり、私自身があまりにも文学とかけ離れて生きてきたからである。

そもそも、その存在すら知らないといえる言葉も多数あるというくらい、言葉というものは多い。

インドは数え方によって、百いくつから数百といわれる言葉があり、多言語多民族国家として世界でもっとも有名である。一番話者の多いヒンディ語が「公用語」。英語が「準公用語」。さらに、十八の「地方公用語」なるものがあり、憲法では二十二の言葉を認めているという。

そのなかで、なぜ日本語は現在まで存続しているのか?今は存続していると言えるのか?他の国ではどういう歴史を辿っているのか?なぜ翻訳という作業が必要なのか?教科書と文学は何が違うのか?福沢諭吉のめちゃくちゃな勉強振りや、夏目漱石の博学振り、「漢字御廃止之儀」に始まる日本語改革(滅亡)論など、本書は言葉の未知数なる奥深さを教えてくれ、それを「<読まれるべき言葉>を読む国民を育てる」ようにするべきだと結論付けている。

本作品は、著者が5年の歳月をかけて取り組んだ書物ゆえに、「普段何気なく使っている日本語」を考える良い機会になることに相違ない。

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