【書評】高校生のための小説案内[想像の光が現実を照らす]

【書評】高校生のための小説案内[想像の光が現実を照らす]
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どうもタスです。

私はあまり小説を読まない。なぜなら、小説は事実でないので、話しを中途半端に聞きがちだからである。そんな私みたいな疑心暗鬼な人のために、、、案内人としては最適だった本書「高校生のための小説案内(筑摩書房)」について、読書習慣を始めて38冊目の本としてお伝えする。

フィクションの世界は、虚構であるがゆえに著者の意図が様々な形で記述されている。感じ方は受取る人によって異なるため、読者は思い思いにそれを読み、解釈次第で無限の世界が広がることを知った。むしろ虚構の世界を現実に投影することによって、ノンフィクションより大きな衝撃を受けることも十分あり得る。

 

 

「高校生のための」三部作
「高校生のための文章読本」~文章を書く全ての人に読まれるべき本です。
「高校生のための批評入門」~批評は論評ではない。「世界に対して抱き持つ精神の働き」であることを知ろう。

 

著者のご紹介

梅田 卓夫(うめだ たくお)
清水 良典(しみず よしのり)
服部 左右一(はっとり さういち)
松川 由博(まつかわ よしひろ)

 

目次

1.はじまりの物語
2.事実に立つ
3.記述の魔力
4.男と女の風景
5.日常の向こう側
6.壁の時代に生きる
7.異世界通信
8.家族の肖像
9.再生する時間

 

小説とは他者になることを楽しむこと

【書評】高校生のための小説案内[想像の光が現実を照らす]

小説とは、想像の世界で一時的に<他者>となるための言葉の仕掛けである

小説はフィクションである。よって、その物語は事実ではない。そのため、読者はその物語が何を意味するのかを無意識に探し求めることになる。その間、読者の意識は小説の中の登場人物と共にあることになる。著者の意図が導かれやすいかどうかによって、伏線が分かり易いかどうかによって、小説の難易度も変わってくるし、むしろ、読者によって難易度が決定されると言えるのかもしれない。

結局、小説はフィンクションであるがために得れる内容が未知数だと思うのである。そう考えると批評の幅が最も大きくなるのも小説なのかもしれない。人によって感じる違和感が全く違うだろうし、もしかしたら未だに掘り起こされていない違和感があるかもしれないからである。

 

事実に拘束されない言葉で現実を作り上げる

【書評】高校生のための小説案内[想像の光が現実を照らす]

本書の別紙(「記述の小宇宙」という響きも好き)には先ずいきなり以下のような記述がある。

日常生活の中では、言葉は事実によって拘束されている。
それに対して、事実に拘束されない、言葉だけによって作られる世界がある。これを私たちは<文学>と呼んでいる。

「極楽船の人びと(吉田 知子)」のように、フィクションにより現実の愚行を示唆しうるような作品は、如何にその視点を得ることができるかどうかで物語の面白味が変わってくる。事実に拘束されない言葉によって現実を作り上げるという皮肉がより小説を面白くさせていると感じるのである。

それは以下の言葉によって、私たちが見ている現実の世間の常識や自分自身までをも変える力を持っていることを示している。

常識というそれまでのものさし(世界を計り、現実を理解する強固な枠組み)は通用しないのである。虚構という枠組みが最大限に生かされ、人間精神の地平を切り開く新しい冒険が始まるのである。

ただの物語に過ぎない虚構の恋愛に私たちの精神の回路が同調する時、これら”第二の現実”は私たちの日常の生活の組み換えを迫る力をもつ。

 

フィクションとはどういうことか?

【書評】高校生のための小説案内[想像の光が現実を照らす]

では、いったいフィクションとは何だろうか?

「芽生(島崎 藤村)」はとても感動した。感動をもっと表現の良い言葉にしようと考えたが、思い浮かばなかった。この物語は、本人家族が文学事業のために田舎から上京してきたのだが、そこで娘三人が次々に亡くなった。物語は、最後に亡くなった長女を看取ることである。しかし、主題は少し違ったところにあった。

それは、表面上、長女をなくした藤村が”薄情”だと言われながら(そう見えながら)、内面ではその”哀しさに苦しんでいる”ことである。家人たちの感情とはあくまで異質で融和しえない部分から見ても、本人は”事業の空しさ”を感じており、ある意味自分を責めているようにも見える。生涯の事業である文学を取ったことによる孤立感がまざまざと描かれているのである。

このような小説は、以下のような議論や検討が行われているようだ。

日本独自の小説の方法と評価するか、小説の「虚構」としての可能性を狭める限界と捉えるか。

作家が<文学>のために私生活を犠牲にし、あるいは生活を作品化していく、そのような創作の姿勢を、文学史上「私小説」と呼ぶ。』なのだが、私は私小説が好きだ。それは、事実と虚構の垣根が見えないところにある。よって、虚構がより現実を作るからである。

「土佐源氏(宮本 常一)」のように、回顧や回想は事実といえるだろうか?人間は忘れやすい生き物だし、それに過去を美化する傾向も持っている。そういったなかで事実とは何だろう?その類と私小説との違いは何であろうか?『「おろかもの」の正義論』に出てきたように、事実とは何だろうか?ということも考えさせられた。

 

おわりに

文例としては「高校生のための」三部作の中で最も面白かったのではないかと思う。それはフィクションだからかも知れない。

フィクションは想像力を引き出してくれて、そして高めてくれる。想像を発するだけでなく感受性も豊かに育てられる。どの物語も人間性溢れる面白い作品に感じた。フィクションはつまらないものと半ば諦めていたものの、フィクションが現実を照らすことを学び、逆説的に現実を知るためにフィクションを読むべきかもしれないと思った。

 

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