【書評】自由論[果てしない未来へも続く自由の定義]

【書評】自由論[果てしない未来へも続く自由の定義]
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どうもタスです。

自由とは何なのだろう?自由になりたいとは考えることはあっても、その自由そのものを考えることは少ない。『「おろかもの」の正義論』でも自由について語っているけれど、根本原理に立ち返って思索した結論は十分に現代にも通ずる。

本書は、自由から派生して、個性や社会、国家や政府、その他の組織の役割など、多岐に渡って自由主義の思想を明らかにする。そこで今回は、読書習慣を始めて120冊目の本となった(岩波文庫)』を読了したのでお伝えする。

 

著者のご紹介(本書引用)

本書に著者及び訳者紹介がないので、wikipediaから引用する。

(ジョン・スチュアート・ミル)
イギリスの哲学者。政治哲学者、経済思想家でもあり、政治哲学においては自由主義・リバタリアニズムのみならず社会民主主義の思潮にも多大な影響を与えた。晩年は自ら社会主義者を名乗っている。倫理学においてはベンサムの唱えた功利主義の擁護者として知られる他、論理学分野においてはジョージ・エドワード・ムーアら後続の教育活動の強い内容にも反映されている上、初期科学哲学の重要な哲学者として知られる。

塩尻 公明(しおじり こうめい):訳者
日本の哲学者、神戸大学名誉教授。J・S・ミルが専門だが、宗教的な人生論を多く書いた。

木村 健康(きむら たけやす):訳者
日本の経済学者、東京大学名誉教授、成蹊大学経済学部初代学部長。

 

目次

第一章 序説
第二章 思想および言論の自由について
第三章 幸福の諸要素の一つとしての個性について
第四章 個人を支配する社会の権威の限界について
第五章 適用
訳注
訳者あとがき(塩尻 公明)
解説(木村 健康)
あとがき(吉野 源三郎)

 

自由とは何か

【書評】自由論[果てしない未来へも続く自由の定義]

まず、序説にて自由を定義している。

この論文の主題は、哲学的必然という誤った名前を冠せられている学説に実に不幸にも対立させられているところの、いわゆる意志の自由ではなくて、市民的、または社会的自由である。換言すれば、社会が個人に対して正統に行使し得る権力の本質と諸限界とである。

その自由を定義した上で、その結論を要約すると『他人に迷惑をかけない自身の範囲内のみでは、自身で責任を負うかぎりは自由であり、それを何人たりとも妨害することは許されない』ということである。

字ずらだけを見ると、なるほど当たり前かもしれない。著者は『「別に取立てて云うほどの独創性はない。」(中略)文明始まって以来恐らくいつの世においても人類に全然欠如していたことのない思想である。』と言い切っているが、本書を読むと当たり前だけれど自覚していない「自由」が体系的に例解をも以って明晰に分析されているのである。

 

幸福を得るための個人の自由とは

【書評】自由論[果てしない未来へも続く自由の定義]

本書の紙幅を最も割いている第二章では「意見の自由および意見を発表することの自由が、人類の精神的幸福(人類の他の一切の幸福の基礎をなしているところの幸福)にとって必要なこと」について以下のように論じている。

  1. 或る意見に沈黙を強いるとしても、その意見は、万が一にも真理であるかも知れない。
  2. 沈黙させられた意見が誤謬であるとしても、それは真理の一部を包含しているかも知れないし、通常は、包含していることがしばしばある。そして、(中略)真理の残りの部分の補充されうる機会は、相反する意見の衝突することによってのみ与えられるのである。
  3. 一般に認められている意見が単に真理であるというに止まらず、完全なる真理であるという場合においてすら、それに対して活潑な真摯な講義を提出することが許され、また実際に提出されるということがないならば、その意見を受容する人々の大多数は、偏見を抱く仕方でそれを抱き、それの合理的根拠を理解しまたは実感するということはほとんどしないであろう。
  4. その教説そのものの意味が失われまたは弱められて、その意見が人の性格と行為とに与える生き生きとした影響が抜き取られる、という懼れがあるであろう。

個人の意見は自由に言えなければならない。それを何人たりとも抑圧することはできない。他人への迷惑にならなければ。その迷惑は、他人にとって有用であるならば迷惑ではない。そして、議論することにより意見は昇華され真理へと近づく。多数者の暴虐であってはならないし、権力に潰されてもならない。

幸福とは何か?それを得るためにできることは何か?行動するために障害になるものはなにか?ゆえに自由とは何か?そんなことを考えさせられる内容である。

 

自由に対する国家や統治団体の影響と権威の限界とは

【書評】自由論[果てしない未来へも続く自由の定義]

個人が自由でいることは、巡り巡って個性となって現れる。自由は自然発生するものではあるけれど、自らの選択により練磨されることも可能なのである。それを明らかにするのが第三章である。前回読んだ「決弾」も、もちろん真理に近づくための自由の余地を与えるための智慧の一つなのである。

さて、第四章では「個人」ではなく、「社会」が登場する。ここでは自由に対する社会引いては国家や統治団体の影響と権威の限界を明らかにしている。いうまでも無く、豊かになった現代では統治機構は最小の原理で良いと思う。力を持てば持つほど、自由が損なわれることは必至であり、第二章で明かした幸福への自由はますます減殺されてしまう。

著者は対応策として以下のように述べている。

統治団体自体の能力を高い水準に維持できる唯一の刺戟は、統治団体に属している人々が、統治団体の外にいる同等の能力の所有者によって、絶えず注意深い批評を与えれるということである。それ故に、このような能力の所有者を育成し、重大な実際問題に関して正確な判断を下しうるようになるために必要な機会と経験とを彼らに与えてやる手段が、政府以外に存在するということは、欠くべからざることとなるのである。

それを実現するには、『アホの壁』ではないけれども、教育が必要であることはいうまでもないが、誰にどのような教育が必要であるかも本書は触れている。私は最も大事な部分だと思うので、ここは本書で確認してほしい。

 

自由を守るために必要なこと

【書評】自由論[果てしない未来へも続く自由の定義]

本書は、冒頭に引用したように「別に取立てて云うほどの独創性はない。」のだろうけれど、それは、個々の事象について、『言われてみれば』を前置きしなければならない。インプットして初めて「その通りだな」と思えるのであって、主体的にアウトプットできるものではない。

しかも、体系的にまとめてみると、これら全てが如何に有機的に結合しているかが理解できる。いずれか一つが欠けても成り立たないのである。

また、当時は専制政治が重要である時代があった。それはその時代の最善だったかもしれないが、他方では圧政による弾圧があったのも事実である(本書でも当時の宗教対立を訳注している)。当時最善であったことは、今は非最善である。であるから、今最善であることは、未来では非最善である可能性は否定できない。というより、充分考えられる話なのである。

そう考えると、如何にして個人の意見が重要であるかが理解できるであろう。異端者は異端ではないかもしれない。異端と思っている自分が異端の可能性がある。多数者の暴虐はこうして起こるのである。

私も含め、意外に欠如する思考力は、自らが正当と思う理論の反対理論が正当化できるか検討することである。自分が絶対的に正しいと思っている時点でバイアスがかかって偏向していることを自覚するべきであり、もし、そうでないとしたら逆の立場に立って思惟することである。自分と議論してみるべきである。

最後に、「」の訳本は多数出版されているが、本書自体に「自由」に関する背景があったのだと、訳者あとがき~あとがきにおいて知れた。日本においても不自由があったのは事実であり、自由を説いた人がいたのも事実なのである。私が本書を読めているということは、自由が真理だからである。素晴らしい。

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