【書評】現代語訳 福翁自伝[現代に復活した最高の自伝]

【書評】現代語訳 福翁自伝[現代に復活した最高の自伝]
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どうもタスです。

以前、学問を以って心身ともに独立することを啓蒙する「学問のすすめ」を読み、とても感銘したのとともに齋藤氏の現代語訳のファンになっていた。そして、今回は学問のすすめの著者である福沢諭吉の自伝である。

当時は年齢を数え年で計算していたため、ややこしいのではあるが(本書に出てくる年齢が単純計算で合わない)、本人が65歳の時に脱稿した本である。

そこで今回は、読書習慣を始めて129冊目の本となった『現代語訳 福翁自伝(ちくま新書)』を読了したのでお伝えする。

 

著者のご紹介(本書引用)

齋藤 孝(さいとう たかし)
1960(昭和35)年生まれ。東京大学法学部卒業。同大学院教育学研究科博士課程を経て、現在明治大学文学部教授。専門は、教育学、身体論、コミュニケーション技法。著書に『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス)、『声に出して読みたい日本語』(草思社)、『論語力』(ちくま新書)、訳書に『現代語 学問のすすめ』(福沢諭吉著)『現代語訳 論語』(以上、ちくま新書)などがある。

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち)
1835(天保5)年~1901(明治34)年。著述家、教育者。「時事新報」発行人。近代日本最大の啓蒙思想家。慶應義塾の創設に力を尽くした。著書に『学問のすすめ』『文明論之概略』『西洋事情』など多数がある。

 

目次

はじめに
第一編 幼少時代
第二編 長崎遊学
第三編 大阪修業
第四編 緒方の塾風
第五編 大阪から江戸へ
第六編 初めてアメリカに渡る
第七編 ヨーロッパ各国に行く
第八編 明治維新のころ
第九編 暗殺の心配と様々な試み
第十編 金銭について
第十一編 品行と家庭、そして老後
福沢諭吉略年譜

 

読者が逆ギレするくらい面白い自伝

【書評】現代語訳 福翁自伝[現代に復活した最高の自伝]

いきなりではあるが、本書は「はじめに」にすべてが集約されている。と言ってもいいくらい要約が適切である。そのため、「はじめに」から始まり、「はじめに」で終わることにする。

 ここに現代語訳した『福翁自伝』は、近代日本最大の啓蒙思想家複座諭吉の自伝です。『学問のすすめ』『文明論之概略』などの本を書き、慶應義塾大学を創設し、現在では一万円札の肖像となっていることからもわかるように、福沢は日本人であれば知らない人のない「偉人」です。
 ただし、この自伝に読む価値があるのは、「偉人の本だから」というわけではありません。私は、この自伝は、近代以降の日本人が書いた本の中でももっともよい本だと思います。なにより、面白い。これほど面白い本は、もう書かれないだろう、というくらい面白い本です。

ここで終わっても良いと思っている。なぜなら本書は「面白い」からである。じゃぁ、何が面白いのか?続きを見よう。

 私は教えている大学生に、福沢の『学問のすすめ』と『福翁自伝』を必ずセットですすめています。『学問のすすめ』が、残念ながら現代の学生にほとんど読まれていないのと同様、『福翁自伝』を読んでいる学生もほぼいません。それどころか、一般の社会人でも、『福翁自伝』を読んでいる人は非常に少ないのが現状です。
 けれども、実際に『福翁自伝』を読んでもらうと、例外なしに『面白かった』という感想が返ってきます。時には、「こんなに面白いもの、なぜ今まですすめてくれなかったんだ」という人もいます。

むむ・・・、まだなぜ面白いのか?の答えは出てこない。けれど、読者が逆ギレするくらい面白いというのは感じれただろうか?

これだけ面白い本であるにもかかわらず、実際に読んだ人が少ないというのは、何が原因なのでしょうか。まずひとつには、「偉人の伝記」ということで持ってしまっている「先入観」、そしてもうひとつは「見た目の敷居の高さ」ではないか、と思います。後者については、本書の訳し方についての個所でまた述べますが、前者の「偉人の伝記」ということでなんとなく「立派さ」「堅苦しさ」をイメージしていたとすれば、それは完全に裏切られることでしょう。
『便所でお札を踏み、神社のご神体を勝手に捨ててしまう』『人をだまして河豚(ふぐ)を食わせてみる』『遊女のニセ手紙を書く』『子供の頃からの大酒のみ』などなどのエピソードを、福沢のざっくりとした語り口で読むのは無頼に痛快です。

お分かりいただけただろうか?偉人が全て偉人たらしめるようなエピソードを持っているわけではない。上記の偉業はほとんどいたずらだし、中には罰当たりで、見つかったらシバかれるような痛いこともなんのそのである。

私もいい意味で先入観を捨て去られ、逆ギレ生徒の一員になれたのは、この「はじめに」から入れたからであろう。

 

異常な学習量とその人柄(福澤スタイル)

【書評】現代語訳 福翁自伝[現代に復活した最高の自伝]

 しかし、その一方で、その勉強っぷりもまた強烈です。あるとき、枕をして寝ようと思ったところ、どうしても枕が見当たらない。そのときふと、「なるほど枕はないはずだ。これまで枕をして寝たことがなかったから」と気づく。昼夜の区別なく本を読み、寝るときはそのまま机に突っ伏して寝ているような日々を送っていたからです。
 勉強も行動も、とにかく破天荒。このエネルギーを直に感じることができるのが、『福翁自伝』の第一の楽しみです。

これは本当に強烈である。第四編で書かれている塾生の勉強風景は、充分に脳内再生して楽しむべきである。気付けば自分も知らずうちに尻を叩かれ、自制心の甘さに気づくことだろうと思う。そう、私はまさにそうである。

 もちろん『福翁自伝』は、ただ面白いだけではなく、ここから多くのものを学ぶことができる本です。その中で、最大のものは、「福澤スタイル」というべきものでしょう。
 福澤は自身の精神を「カラリとした」と表現していますが(本書三二ページ)、まさにその形容がぴったりです。「知性による明るさ」というものがある。現代日本では、「知性」というとどうしても、辛気臭さというかじっとりしたイメージがあるかもしれませんが、必ずしもそうではないことを教えてくれるかのようです。
 福澤の知性には、スタイルがあります。単なる合理性というのではありません。自分自身の気質を良く知っていて、それに合わせた自分の方を持っている。だから相手や状況に過度に振り回されずにすむ。
 「借金はしない」「自分は政治の下戸である」「卑怯な真似は絶対に出来ない」「血を見るのは大嫌い」など、自分の気質を曲げたところで事を成そうとはしない。
 「自分には大親友はいない」と福澤は言います(二二九ページ)。仲好くなった相手とでも相手が心変わりをしたら交際は止めなければならない。それで、「自分ひとり孤立するようになっても苦しくない。けっして後悔しない。自分の考えを曲げてまで気に入らない交際は求めない」と心に決めている。当時、幕末維新の志士たちは、熱く天下国家を語り合い、互いの友情を育んだり、失望したりしていましたが、それとは正反対の態度です。そういえば、福澤は「顔を赤くして議論したこともない」と言っています。

これは非常に興味深かった。本書でも「血に交わって赤くならず」とあるように、自分のスタイルは決して崩さない。現代では「飄々とした」という表現があるが、それが合う方なのだと思う。そして、そういう態度をどこか羨ましくも思い、確固たる自分を作る信念の持ち方を大いに学べるというのは過言ではない。

 こういう一見冷めたように見える対象との距離の取り方が、福澤は抜群にうまい。それは、対象が自分自身であっても変わりません。自分の心とも過度にかかずらわない。それが「自分自身とうまくやっていく」ための最大の秘訣になっている。
 そうやって自分とうまく付き合い、自分の気質をよく知り、それを元にして環境に対処していく。福澤の合理性とはそういう性質を持っていて、それがさわやかさ、バランスのよさ、そして「結果」にもつながっているのです。

なにより、自分自身に対応できることが素晴らしい。メタ認知とでも言うべきか、俯瞰して見れているわけである。こういうことができると、冷静とかいうより悟っていると言った方が良いのかとすら思う。

 

『学問のすすめ』と本書の二冊読みのすすめ

【書評】現代語訳 福翁自伝[現代に復活した最高の自伝]

 私は「『学問のすすめ』と『福翁自伝』を必ずセットですすめている」と言いました。この二冊は、一冊ずつでも非常に面白く、役に立つ本ですが、セットで読むことによって、その楽しみや威力は倍増します。
『学問のすすめ』は、福澤による「マニフェスト」です。「これからの日本は、日本人はこんなふうに学問をして独立していかなくてはいけない」というメッセージが、明晰に力強く書かれています。
 一方、『福翁自伝』は、福澤自身の生き方や行動が、それぞれ非常に具体的なエピソードで、しかも、それが現在ではとても体験できないような密度で記されている。
 そういう意味では、方向性は多少異なっている二冊ですが、合わせて読むと、そこに一貫した「福澤らしさ」を感じることができるでしょう。世の中には「言っていること」と「やっていること」が全然ちがっているという人も多いですが、福澤には不思議なほどその齟齬がありません。
 経験や環境や人柄が、どのようにして人に伝わる言葉になるのか。また、強烈なメッセージを発する土台となる人間はどういうあり方をしているのか。『学問のすすめ』と『福翁自伝』を合わせて読むことは、それらを学ぶためにも最良の教材なのです。

本当にこの通りである。『学問のすすめ』と『福翁自伝』の雰囲気は違う。言い回しや言葉遣いや文調の雰囲気は福翁独特のものが醸し出されてはいるものの。『学問のすすめ』の下支えになっているものが『福翁自伝』で語られる歴史から生まれたのだなと納得した。

 本書は、『現代語訳 学問のすすめ』とは異なって、かなり手を加えた訳文になっています。
 まず第一に、抄訳です。ひとつには分量の関係から、もうひとつには現代日本人への取り付きやすさを考えて、訳出する箇所を選んであります。
 本書で、中心に選び出したのは、前半部の若き青春時代のドラマの部分です。これはどうしたもはずせない。一方、後半部での当時の時代背景を前提として語ってある箇所は、かなりの部分を略してあります。「攘夷論」や「王政復古」などを背景にして語っているところなどは、この時代についてある程度知識を持っていないと読みづらくなっているからです。この現代語訳では、まずはストレスなく「再度まですっと読める」ものを目指して、それらについては割愛しました。
 もちろん、後半部からも、福澤自身にかかわるエピソードや、その考え方やあり方がよくうかがえる箇所については、厳選して訳してあります。
 第二に、個々の文についても、課ならすしも原文の一字一句を逐語的には訳していません。『福翁自伝』は、元がかなりフランクな口語文で書かれています。それを、すべての語について厳密に逐語訳しようとすると、かえって福澤のリズムを損なってしまいます。またいま読んでみると、ちょっとくだくだしい表現になっている箇所も少なくありません。
 改行も少なく、漢字の使い方も、現代で普通に使われているものとはだいぶ異なっている。それが、先に指摘した「見た目での敷居の高さ」ということにつながっているように思われます。
 そこで、本書では、「福澤が、今、現代日本語で語ってくれたらどうなるか」を意識し、その口調・ニュアンス・リズムを尊重して、現代日本人になじみやすいように仕立てなおしました。
 『福翁自伝』の原文は、多くの出版社から刊行されていて、手に入れやすいものですから、本書を読んで、「省略のないものを読みたい」「原文をそのままのリズムを味わってみたい」という方は、ぜひそちらにも挑戦していただきたいと思います。
 なお、本書の底本には、富田正文校訂『新訂 福翁自伝』(岩波文庫)を使用させて頂きました。記して感謝いたします。
 この本が形になるに当たっては、『現代語訳 学問のすすめ』に引き続いて、ちくま新書編集部の伊藤大五郎さんにご助力を頂きました。ありがとうございました。

以上で「はじめに」が終わる。どうだろう。これで読んでみたいと思わないだろうか?一万円札に載った偉人は何をした人なのか?どういう思想なのか?そもそも偉人の伝記を見てみたい。そういった疑問は本書及び『現代語訳 学問のすすめ』を読むことで大まかには理解できると思う。

そして、本書を読んだ後に再びこの「はじめに」を読むと、「そうそう、まさにこれが本書の内容だな」と実感できるであろう。この続きを読んでさらに驚嘆していただきたい。私も著者の齋藤氏と同様、『現代語訳 学問のすすめ』と本書の二冊読みを強くおススメする。

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